夜の空
「月明かりはあそこ、丁度部屋の隅……光から一番遠い場所はあちらの隅」
普通の曇りで三十パーセント。特に特別な指示もなかったから、好きなように描いて良いという事。
「よし、月明りを遮らないように、一番遠い所から描き始めてみよう」
美しさを優先するならば、月に被るように雲を描きたい────
けれどこの夜空で、月はとても重要な導きの光となる。それを最初に消してしまうように描くのは、自分で自分の首を締めるようなもの。
「例えここで雲に被るようにして描いたとしても、地上の何処からかは被っていないように見える……それなら────」
バケツと筆を持ったまま、ビハールは月から遠い部屋の隅まで行き、立ち止まった。
「月のない場所で、月にかかっていたら美しく見えるような雲を描けばいい」
バケツを置いて、ビハールは筆を取る。
いつもの自分だったら、部屋全体にバラけさせるようにして描いていただろう。
けれどビハールは今、その場所にまとめて三十パーセント分の雲を描くことに決めた。
夜の空の難しいところは、白いペンキで描き込んでも、乾くと同時に夜の空へ溶けて薄暗い色へと変化する事。
その、変化する瞬間は何度見ても面白くて良いのだけど、どれぐらいの濃さで描いたのか分かりにくくなるのが難点で、難しい指示がなくて本当に良かったと、一筆入れる度に思いながら、ビハールはなんとか雲を描き上げた。
「よし……!」
筆は背負い、バケツも蹴飛ばさないようしっかりと手に持って、月を眺めながら部屋の中央で振り向き、自分の描き上げた雲を見る。
するとビハールの目には、それまで見つめていた月が自分の描いた雲に重なって見えた気がした。
「…………」
まだ、もっとこうしたいという己の欲や、この部分をああしたら、帰りそびれた天使が月の光の天使の梯子で戻ってくることもできるかもしれない、というふうな想像してしまう自分を、嗜めるように首を振ってから扉を出て時間を確認する。
柵の向こう、吹き抜けの中央に浮かぶ時計は、終了時刻の十五分前を指している。
「いつもよりずっと早く終われた……!」
これまで、たとえ三十パーセントの雲の空でもこんなに早く終われたことはないのに……と驚く。
が、思い返してみればいつもは『全体のバランスが』とか色々ごちゃごちゃ考えていて、出だしから遅くなっていたのだと気づいた。
結果、雲を空いっぱいにバランスよく散りばめるために度々確認したりして余計に時間を使い、自ら大変になっていたという事も。
「これも……成長したってことなのかな……」
思いがけない突然割り振られた朝一の夜の空。
難しい指示こそなかったものの、昼の空の時でさえ時間ギリギリになっていたのが、僅かな月明かりを頼りにできる限り纏めて描く、ただそれだけで簡単にクリアしてしまった。
今まで自分がやってきたことが間違いだとは思わない。けれど、今の自分がやるには高度なことだったのだと気づいた。
この気づきも成長の一つなのだろうか……? と苦笑しながらビハールはつぶやいた。
「きっと僕は、無茶な理想を追い求めない、というのを練習していけば良いのかな……」
今一度自分の描いた夜の空の雲を扉を開けて覗く。
星空をバックに、暗い色の大きな雲の塊。所々淡くしたり、それでも少しはと、外側に点々と小さな雲を描いたりした。
濃淡の調整がいまいち上手くいかなかったし、バランスもやっぱり満足のいく物ではないけれど、次はもっと上手に描きたいと、心の底から思える。
焦りとかからではなく────